2017年 7月 8日(土)の『和田家文書』研究会の報告 |
◆第 1 1 回 『和田家文書』研究会 平成 2 9 年 7月 8日(土)午後3時~5時 於人形町区民館 リーダー&報告者 安彦克己 出席者 16名 |
(一)第十回の補足史料 2件 ①福津諭吉に関する著書紹介 『一万円札が泣いている ― 福津諭吉の本性』 久慈カ氏 第三書館 ②藤原京での藤原宮と小字アピコの位置を示す地図 |
藤原京での藤原宮と小字アピコの位置を示す地図 |
(二) 神器を埋める 秋田實季「朝熊隠居之譜」(第3回 No. 2 ― 小浜・羽賀寺文書)に ⑬「倭にありき荒吐神多く廃され、神器は土に埋められ、亦、破して捨つる事、各所に起こりぬ。」 とある。 『和田家文書』には同様に、神器を埋めたとする史料が十一本見いだした。 「明日香之史談」(『和田家資料』3 北斗抄 25頁)には、 「依て、出雲にては荒神谷と曰う処に、神器一切を埋めたり。筑紫にでも然りなり。」 とある。 その他の史料では 史料 7(北鑑 34) 「神器悉く荒覇吐谷にうめられたという。」 史料 8(日本北鑑)「荒覇吐神之神器埋土中 」 史料 9(北鑑 28) 「荒覇吐神たるの出雲大社・築紫の宇佐神宮・大元神社の古習を一変し、旧神器を壊し是を埋めて神礎とし日の神を祀りき。」 史料10(『和』4 p428) 「出雲に荒神谷と曰うあり。昔より能く土中より古人の遺物多く出つるところなり。」 とある。 ところが、驚くことに、史料10の「出雲の荒神谷」とぴったりの地から1983年(昭和58年)になって、銅剣(古田武彦氏は銅矛としている)三五八本が出土発見された。 『和田家文書』を読むものとしては、祭器を埋めてから千数百年を経て、文献にある地から神器が出土したことは、発見されたことに以上に驚きであった。 史料 7 の「荒神谷」は本来「荒覇吐谷」であろう。 「偽書派」の徒は、発見された後に和田喜八郎が書いたとする噴飯ものの愚説を喧伝していた。 それより先、古田氏は75年に著した『盗まれた神話』の最後の頁で、「出雲王朝」という歴史用語を発表された。後年「清水の舞台から飛び降りる覚悟で、論理の必然から『出雲王朝』発表した」と話されている。 しかしその当時“出雲からは金族器は出ない”とされ、この歴史用語は一時孤立していた。ところが荒神谷から従来の常識を覆す大発見のニュースが流れ、古代史学会には驚きを持って迎えられたが、古田氏からすれば、出るべくして出た当然の出土であった。 (三)「阿毎(あめ)氏」「天皇(あめ)氏」とは 『和田家文書』には阿毎氏について七十一本の史料がある。(一覧表省略 ― 配付資料集参照) 史料27 (和1 頁25)には 「我が日乃本国は唐書に明記ある如く、故主は耶靡堆国の阿毎氏、安倍なり。即ち、阿毎氏とは古き世に、山靼より満達、朝鮮を経て越州にたどりて加賀の犀川に住居し、白山神三輪大神を祀り、地民と染むるに国を耶靡堆に拡め、耶馬止王とて君臨せる故事ありき。 地の三輪山に祀れる大神ぞ、先住なる加賀の犀川に祀りき三輪山大神を移鎮せしものなり」(ラインは筆者) 史料65(阿毎氏改姓之推移」『東日流六郡誌大要』)には 「支那天皇(あめ)氏より阿毎(あめ)氏と相成候事は、文字を以て意趣是無く候。 口音にしてあめしとぞ言はしむる他にあらざるなり」(ルピとラインはママ) とある。 全史料の内容を大別すると (A) 阿毎氏の大祖について (B) 加賀三輪山 と白山神について (C) 耶靡堆に於ける阿毎氏 (D) 東日流に向かう安日・長髄彦 (E) その他 に分けることが出来る。分類別に史料をまとめると、 (A) 阿毎氏大祖に関する史料 〇安倍氏の大祖は支那天皇(あめ)氏で耶靡堆国阿毎氏の流胤。 〇天山天池の神、東王父・西王母を神祖と為し 、伏義(ふっき)女媧の神を創神祖人とし大興(安)嶺を越え、大白頭山→加賀犀川→三輪山と廻り西王母を、白山に東王父を祀った。 〇古き世、山靼より支那国満達(万達)朝鮮を経て加賀に到る。 とある。 ここからは、支那天皇氏→加賀三輪山阿毎氏→耶靡堆阿毎氏→安倍氏と繋がっていると読むことが出来る。 〈満達〉について 『和田家文書』の満達史料を集め史料数は二十一本見いだした。 主なものを挙げると 〇支那の鮮卑、または金国を満達という。 〇支那、満達、山靼、紅毛人国 〇渡島御神威崎より満達に渡る。 〇支那民満達より黒龍の流れに乗りて流鬼園にたどり着く。 〇鮮卑園に宣書を出し不可侵や約した支那満達黒竜江碑。 〇スキタイ人はモンゴルより大興安嶺、満達に到る。 〇満達の奥、蒙古。 〇阿弖流為の祖は興安嶺満達 。 〇アルタイ国シキタイ族の国を東に満達國に到る。 |
金国横断之荒覇吐路 |
以上から推すと、満達は 〈黒竜江に沿った、大興安嶺の東、沿海州の西方、後の金国、鮮卑の地で、満州族、韃靼人が住んでいた大地、後の満州国) となろう。 『和田家文書』は、阿毎氏(天皇氏)が古き世に山靼より支那国満達(万達)、朝鮮を経て加賀にたどりついたことを伝えている。 (B) 加賀の三輪山に関する史料 〇阿毎氏、領内に白 山神を杷る。 〇加賀の犀川に居住し 白山神三輪大神を瓶る 。 〇加賀の三輪山に肥れる大神を (耶靡堆に三輪山に) 移鎮せしものなり。 〇始祖在加賀大三輪山九頭竜大物主。 〇加賀より攻め耶靡堆に国造りす。 〇白山比咩神大三輪。 など。 まとめると、阿毎氏が加賀犀川上流の三輪山に白 山神を把り、その後耶靡堆に向 かった、とする歴史が語られている。 <加賀の三輪山> つぎに挙げる現代の地図には 、手取川の上流に 三輪山の名称を持つ山がある 。 |
加賀の三輪山 |
この三輪山については、明治期に参謀本部が五万図の一地図作成する時に、「誤って冠岳を三輪山とした」と加賀地方の山岳案内書にある。 明治期の地誌『皇国地誌』には挙原山から水葉山に向かう稜線上にある庄司峰が本来の三輪山、「美濃輪山」と書かれている。とちらが本来の三輪山であろう。 (C) 耶靡堆に関する史料 〇阿毎氏、耶靡堆に加賀の三輪山宮を移す。 〇耶靡堆国に阿毎氏を以て三輪郷蘇我に高倉を造る。 〇倭の王天皇氏その一族に春日氏、和咡氏、葛城氏、阿毎氏、蘇我氏、平群氏、巨勢氏、紀氏、物部氏、大伴氏がいる。 ここでは、阿毎氏は加賀の三輪山から大三輪神、白山神を耶靡堆に勧請し、三輪蘇我郷に高倉を建て、倭の王天皇氏の一族に春日氏他九氏があるとの歴史を記している。 今後に検証したい。 (D) 東日流に向かう安日・長髄彦 〇阿毎氏の子孫で東日流落着の安日彦・長髄彦は全能唯一の神荒覇吐神と信仰の統一した 〇累代は大祖阿毎氏=三輪氏→耶靡堆氏→安倍氏→安東氏となる。 〇王位の順は耶靡堆王→荒覇吐王→日本将軍→安東将軍となる。 同様の記述は『和田家文書』に数多あり、この『文書』の基本を為している。 |