2017年 7月 8日(土)の『和田家文書』研究会の報告 

 
◆第 12回 『和田家文書』研究会 
  平成29年8月12日(土)午後3時~5時 於人形町区民館 
リリーダー&報告者 安彦克己 
 出席者 20名 


(一)神器の埋蔵を伝える明治写本
前回『和田家文書』には神器を出雲の荒神谷(荒覇吐谷)に埋めたとあり、1983年に
なって、同所から銅矛358本が出土発見されたことから、「偽書派」の徒等は、発見さ
れた後に和田喜八郎が書いたと喧伝したと報告した。
研究会で、このような浅薄な批判には「寛政原本ではなくとも、和田末吉による明治写本
で一蹴できるのでは」との意見があり、早速竹田侑子氏から『北斗抄』明治写本のコピーを
送っていただいた。
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(北斗抄 壹)
一枚目後ろ三行目に「依て出雲にては荒神谷と曰ふ處に神器一切を埋めたり」とある。
この明治写本は、大福帳の裏を利用して末吉が書き継いだ文書のコピーである。  
 


(二)耶靡堆の「靡」の字を「ま」とも訓む
『大漢語林』『新漢語林』には、耶靡堆の「靡」の字を「ま」とも訓むとある。(仙台原廣
通氏からのご教示)


(三)加賀について
前回、『和田家文書』には、「阿毎氏は満達より加賀に渡った」とあった。今回はこの命題を
検証するため「加賀」をキーワードに『和田家文書』から四十三本の史料を探し出した。
(一覧表は省略)
史料群を概観すると次の項目に分類することが出来る。
(A)西王母の聖地天山天池から白山への経路
(B)朝鮮半島の出港地
(C)加賀三輪山について
(D)白山神を加賀から耶靡堆に
(E)安日、長髄彦、東日流へ



『異説白山神由来』(『北鑑』 第37巻)を一例にして項目に分けて読んでみる。
「(A)支那秦嶺なる太白山五丈原地民に祀らる西王母、女媧、伏羲の三神ありて、支那五
千年の古神とて、渭河及び黄河を北方にその信仰を弘む。長安を経て凾谷関を汾河に登り、
白河に至り、蒙古、遼寧、安東を経にして、鴨緑江を白頭山にその信仰を擴げ、茲に朝鮮
創国の神格を顯す。
(B)大白山信仰、これに創りて三陟より韓人渡りて、加賀にたどりて、
(C)西王母、女媧、伏羲の三神を犀川の奥なる三輪山に祀りたり。地民、是を白山神と
祀り、越の国を北に信仰走り、白馬山、白山の神格と相成らむ。亦、女媧、伏羲の神を蛇
神とて、是れを大物主神と稱し、
(D)西南に降り耶靡堆の三輪山に鎭座せしめたるは阿毎氏なり。此の地にたむろせる地
王に先んじて、耶靡堆王とて君臨せるは阿毎氏なり。」
この史料に(E)の記述はなかった。

全史料から各項目の史料を纏めてみた。
(A)ウルムチ辺の天山天池から西安辺の太白山、朝鮮国境にある白頭山を経て加賀白山に
白山信仰が伝わったとする史料は多く十五本もある。
この信仰が更に耶靡堆まで伝達した、その経路が記されている。
(B)例示した「三陟」の他に、長鬐(ちょうぎ)湊(大要頁528)、安東邑(和1p3
07)、釜山(和3p18)から渡来したとある。

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(朝鮮半島の三陟と長鬐串)
 
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 (長鬐串拡大図)
 
また渡来人が故地(朝鮮)の地名を加賀の地に付けた例として、白山、三輪山、九龍を挙
げている。(和3p18)(和4p394)九龍は長鬐串(半島)にある。

(C)加賀三輪山
「犀川三輪山」の図(『東日流六郡誌大要』p583)には、犀川の左岸に荒覇吐神を祀る神
社の三鳥居が描かれ、犀川の上流に三輪山ありさらに遠方に白山が描かれている。(図参照)

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この三つ鳥居の神社は、手取川の右岸にある白山毗咩神社ではないことは明らか。ところ
が、白山毗咩神社境内には重要な摂社として荒御前(あらみさき)神を祀られている。荒
覇吐神ではないだろうか。また、白山の三山は北の大汝(おなむち)山、中央の御前山(み
さき)、南は別山と呼ばれている。御前山は毗咩神社の摂社荒御前神社と関連するのだろう
か。また大汝は大己貴命に通じるのだろうか。加賀の三輪山は白山を遙拝する場所である。
加賀の三輪山は興味深い今後の課題だ。

(D)加賀三輪山から勧請して耶靡堆三輪山大神神社へ
加賀から耶靡堆へ移ったとする史料を挙げる。
○山靼、満達より渡来した阿毎氏は三輪氏と改称し、後に白神氏、蘇我氏、耶靡堆氏と変
えた。(和3p23)
○九首龍川、美濃白鳥、長良川、尾張、伊賀、宇陀川を経て耶靡堆蘇我に向かう、とする
史料は三本ある。(和3p231・k10・k20)
美濃白鳥の白山神社は神寂びて荘厳な佇まいをしている。(インターネット)
(E)安日彦・長髄彦の二王が耶靡堆から東日流に敗着。この記述は再三紹介している。
以上白山神の視点から加賀、白山周辺を巡る必要があると感じている。

(四) 『天皇記』『国記』について
この研究会の一大テーマは、『天皇記』『国記』の内容を検証する、として始められた。
『日本書紀』には『天皇記』『国記』について触れているのは二箇所のみである。
① 推古二十八年是歳條に、
「聖徳太子・嶋大臣(蘇我馬子)と議して天皇記・国記、他の本記を録す」
② 皇極四年六月の條に
「十三日、蘇我蝦夷等、誅され無として、悉に、天皇記・国記・珍宝を焼く。船史恵尺、
即ち疾く焼かるる国記を取りて中大兄に奉献する」
とある。
次いで『天皇記』『国記』の編纂に関与したした推古天皇、聖徳太子、馬子三者の死去記事を
『日本書紀』から挙げる。

(1)聖徳太子については、編纂を協議した翌年(推古二十九年)が明けて直ぐ、二月五
日に死去の記事が載る。そこには、諸王、諸臣、百姓悉く嘆き、「日月輝を失い、天地既に
崩れぬ。今より誰をか恃む」とあり、太子の死去の報を聞いた人々は、誰もが悲しみに暮
れている様子を記している。この描写は、現代史ではあたかもJFケネディー大統領の突
然の死去を想起させる。
没年月日について『岩波古典体系』では法隆寺釈迦三尊の光背銘などから推古三〇年説を
解説している。
(2)馬子は推古三十四年五月、桃原の墓に葬られる。『岩波古典大系』では桃原墓を明日
香村石舞台古墳とする説を説明している。
(3)推古天皇は三十六年の二月から病に伏し、三月になって痛み甚だしく、遂に「諱(い)
むべからず」(死をいう)とある。七十五歳であった。
以上のように、三者の死去の記事をおさえておく。

つぎに、『和田家文書』の『天皇記』『国記』史料を見てみよう。『北鑑』から新に五本見い
だして、計六十三本となり、『日本書紀』の二本とは比較にならない史料が採用あるいは記
述されている。(史料一覧表省略。資料集に掲載)
史料内容を大別すると
A 天皇記・国記の内容
B 編纂について
C 乙巳の変について
D 隠匿行程記
の四項目に分けられる。

『天皇記』をそのまま書き留めたとする「丑寅日本国史抄」(『和田家資料』2 丑寅日本
記 p104)と『国記』は「北斗抄」二十七((『和田家資料』4p432)を読んだ。
今後この史料の内容を検討することになる。
今回はBの編纂について検討する。

○史料1「議嶋大臣蘇我馬子編天皇記国記(和1p240)
推古天皇二十八年より三十六年に至りて天皇記及び国記を編纂、天皇記全六巻、国記六巻を
筆了せるも、天皇崩じ、是を馬子奉持してより、倭国一統の葛城王五畿七道を権握す。」


○史料9「陸奥諸傳(和1p251)
陸羽になる歴史の実相、蘇我馬子が編したる天皇記にありて証する也。」

○史料14「倭国天皇記国記之事(和2p213)
倭国天皇記及び国記の編纂を大臣蘇我氏にて推古天皇の二十八年に、上宮太子嶋大臣謀り
て録す。書記人に語部とて巨勢氏、平群氏、紀氏、葛城氏、蘇我氏、鴨氏、春日氏を要言
とし、伊奈氏、伊理氏、差保氏、保武氏、阿毎氏、箸香氏、二地氏ら補言に編集せしに天
皇記成れり。」


○史料T8(丑寅風土記4巻・未刊)
「是の書は推占天皇二十八年に皇太子、嶋大臣議りて天皇記及國記を編集せし者にして、
記述者は百済の契民及び張栄、更に支那揚州の人、竹林及び宋明、恭繋らに記させし者也
と日ふ。」
『日本書紀』と『和田家文書』を対比し検討すると
①編纂者は推古天皇、聖徳太子、馬子で両者一致している。
②編纂時は双方とも推古二十八年(六二〇)で、これも一致している。
③史料1では編纂に八年ほどがかかっているとしている。ところが続く記述に(推古)「天
皇崩じ、是を馬子奉持」とある。先述したように天皇より馬子が先に死去していることか
ら書記とは齟齬がある。
④『和田家文書』には『日本書紀』にはない情報もある。書記人に語部とて巨勢氏他六氏を、
要言の七氏を補言として、各氏の所持している文献をも編纂の際に参考にしていると読める。
⑤記述、記載にあって百済人や揚州の識者も援用しているとあり、大陸の識者等に助言さ
れていることを率直に記している。
以上が『和田家文書』における『天皇記』『国記』の編纂についての知見だ。『日本書紀』
と一致する点と更に上書きしている内容が書かれている。
もう一つ、『先代旧事本紀』の序文に触れておこう。
『先代旧事本紀』本文について江戸時代の国学の立場から「偽書」説が喧伝され、またこ
の序文については本文と比較して「いかにも拙劣」との理由から、後に添加されたとの説
が通説となっている。従って最近まで歴史史料としては検討されて来なかったのが実状で
ある。昭和三六年の鎌田純一氏の『先代旧事本紀の研究』がこうした評価を決定づけている。
しかし、この時期は未だ古田氏が『耶馬台国はなかった』を発表する以前の論説で、学問
の方法そのものが未だ陋浅であったことは否めない。古田氏の方法論で史料批判の研究が
なされる必要があるのではないだろうか。
ここに序文を引くと、
「大臣蘇我馬子宿祢等奉 勅修撰
夫先代旧事本紀者聖徳太子且所撰也。干時小治田豊浦宮御宇豊御食炊屋姫天皇即位廿八年
歳次庚辰春三月甲午朔戊戍、摂政上宮厩戸豊聰耳聖徳太子尊命。大臣蘇我馬子宿祢等奉勅定。」
(五)熊野年代記 
熊野年代記の中に九州年号が出てくる。(原廣通氏より史料を頂きました。)
『日本書紀』にない条もあり、歴史史料として調べる必要がある。