ディスカッション 倭国から日本国へ 
  ― 日本書紀の記述から7世紀後半を考える 
 まとめ

 
◆ディスカッション 倭国から日本国へ 
  ― 日本書紀の記述から7世紀後半を考える 
 まとめの 発表内容は以下の通りです  


「倭国から日本国への7世紀」

2017.8.26 田中 巌

1、はじめに―議論すべき多数のテーマ
 7世紀後半の倭国から日本国への統治体制変化に関わる政治的事件(例えば(1)乙巳の変、(2)大化の改新、(3) 皇極・斉明、(4)壬申の乱、(5)近江朝 等)を、古田先生が何処まで解明されているか、そして未解明部分があれば解明の糸口をつかみたい、との思いから例会参加者によるディスカッションを行うこととした。
しかし、それらのテーマの中で急がれたのは 、古田史学の会中心に進められている「前期難波宮九州王朝副都」問題である。古賀さんの2回にわたる東京での講演やニュースに掲載されている古賀論文をどの程度理解しているか、さらに、今年10月15日予定の講演を聞くに当たっての基礎知識を共有しいと言う思いも込められたものであった。
以下、いくつかの項目別に、出された代表的な意見、疑問点等を要約して列記する。

2、「前期難波宮」の舞台となる上町台地の地形・地図について発掘現場見学や報告書の詳細に接していないため 、土地勘・地形などの理解からはじめる必要があった。
 古大阪湾地図に新旧あり(大阪市歴博が採用している旧地図と、20,000本のボーリング調査から作成された新地図)、旧地図からは@仁徳期の難波の堀江を説明出来、A上町台地が難波地名で呼ばれていた証拠とされ、新地図では@仁徳期の難波の堀江は別の土地を示唆、A朱雀大路を開設するには高低差15〜 〜20bの谷、窪みを埋める大工事が必要で、大阪歴博内でも不可能との異論が出ている様子(村元健一)であることなどが理解できる。
発掘された地面は造成されて平坦面となっており、宮殿跡であるとして、復元模型を作っているが、宮居であると言い切れる のか。豊臣秀吉時代の大阪城と比べて、より砦に近い土地形状であり、宮殿ではなく砦跡に近い建造物跡ではないのかという疑問が残る。

3、前期難波宮の建設時期について
 土器編年から孝徳期(650年頃)か、天武期(680年頃)かの論争が考古学分野で行われていて、一方に組みすることが出来るほどの知見に欠けており、今後の研究課題である。土器の形状などの変化周期に基 づく土器編年は考古研究者のさらなる検討結果を待ちたい。
 仮に前期難波宮を孝徳期のものとしたとき、聖武期の後期難波宮遺構との聞に天武期の遺構は見つかっているのか。宮居、高楼、回廊、門などは、間違いなく同時期のものと言えるのか。
 孝徳期に造られたとされる宮を30〜40年後の天武期になって、関と羅城で守るというのは上町台地の宮なのか、筑紫難波の宮なのか、さらに研究する必要がなかろうか。

4、記紀の 「難波」地名の同定が必要
 神武東侵の場所は「浪速」「波花」で「難波」ではなかった。いつからこの地が「難波」と呼ばれる様になったか。
 難波王朝、難波遷都、難波長柄豊碕宮、難波高津宮、長柄、味経宮、大郡、小郡、などの場所はどこだったのか。
 『なかった』 第五号(P24)で古田先生は、難波長柄豊碕宮は筑紫にあった難波長柄の「豊碕宮」だったとされている。

5、造成地関連
干支木簡は孝徳期の造成土層出土なのか、ゴミ捨て場なのか。大量の大理石屑が共伴しているとの説明もあり、そうだとすれば後期難波宮の礎石(大理石)設置の時期にならないのか。これらの点で考古研究者の間で論争はないのか。
 柱穴の地層は全てが前期で間違いないのか、柱穴跡出土の木炭は建物の焼失の痕跡なのか、柱建立時の腐敗防止の焦がし痕か。

6、九州王朝の副都と言えるか
 九州王朝の建設とする証拠(九州系土器などの実証)が極めて薄弱と思えるが、土器片はいかほどの数が出ているのか、土器片以外には何があるのか。
 後期難波宮や太宰府と比べて規模が大きく、近畿説論者が説明に困っているとは、具体的にどの様に困っているというのか。大規模宮殿を必要としたのは近畿王朝ではなく九州王朝だったと言う根拠が曖昧ではないか。
 近畿王朝のものではないというのであれば、根拠を示す必要がある。
 今時点で、九州王朝の副都と言い出すと、巻向の大型建物跡や箸墓古墳をして邪馬台国の証拠物とする論理と似たものと言われないか。
 誰が造った誰のためのものかは、今のところ不明であるということで良いのではないか。
7、九州王朝の副都という着想について
 倭国から 日本国への過渡期として「九州王朝副都」説は魅力的な仮説ではあるが、通説論者が邪馬台国近畿説を主張する如き轍を踏まない様にしたいもの。
 外部に向かつて論争を仕掛けるより、内部の検討をさらに積み重ねるべきではないか。考古学の研究の帰趨を待った方が良いのではないか。
 反対論者に回答を迫るのではなく、九州王朝の流れに沿って、副都建設の必然性を示すなど、地道な研究を重ねるべきである。
 九州王朝が白村江を控えたこの時期に、ここに唐突に副都を造る必然性があるか。

8、「三本の矢」について
 大古墳については古田先生も論証ずみ。服部論文(古田史学会報No.137)、平松幸一論文などでも論じられている。
 仏教寺院については、全国的に廃寺の時代考証などを行うべきで、現時点で地域の多寡、大小などを論ずるべきではないだろう。

9、7世紀をバーチャルリアリティに描く努力
 蘇我物部戦争・河内戦争から副都建設(?)への道程、近江朝〜天武朝の変転など、政権移行前夜の解明すべき課題は多い。
 持統紀の吉野紀行34年スライド記事を論証した古田先生の手法に倣った正木説も、古田先生の論証に比肩する説得力を持っているか、今後さらに検討を要すると思われる。
「学問は批判を歓迎する」―このような言葉は古田先生ほどの研究者が、従来説論者からの批判にたじろがない論をまとめあげた上で言う言葉ではないだろうか。
 声なき声は、賛同している姿ではない。古田先生の論理に感激し、胸打たれて言葉を失っている状況とは違っている。「うまく説明は出来ないがチヨットおかしい」と思う人々が沈黙しているのではないか。

 以上、私自身も、不十分な知識しかないまま、討議資料を用意しなければならず、間違いだらけのものとなってしまった。討議資料は正確で、あるべきだが、間違った部分は討議で、正されるはずとの安易な考えで、急ぎ作成したので、初回の年表も大事な部分を口頭で訂正して頂いたり、2回目も、改元儀式と立評儀式の書き違いなど、無残なものだった。
 私たちは、古田先生の示された説をより発展、深化させていかなければならないが、意見交換し、討論し、修正し合う建設的内部論争を積み重ねて行きたいと考えて、今回のディスカッションを行った。
 今後も、こうした学習、議論を繰り返して行きたいものである。

以上