2017年 9月 9日(土)の記紀歌謡万葉集研究会の報告 

 
◆第 13回 記紀歌謡万葉集研究会 
平成29年9月9日(土)13:00~15:00  人形町区民館 
 座長 橋本正浩
 出席者 (12名前後、要確認) 
 


1.今回は応神帝の歌とされる歌謡に取り組んだ。

①国見の詩とされる古事記第四十二番、日本書紀の第三十二番を担当者は対比しながら説明した。

・古事記第四十二番   従来の読み:千葉の 葛野を見れば 百千足(ももちだ)る 家庭(やには)も見ゆ
        国の秀も見ゆ

どちらも 同じ解釈で国誉めの歌とされている。

これに対し、橋本氏の読みと解説。
    読み:千葉の 葛野(かづの)を見れば 百千(ももち)なる 矢庭(やには)も見ゆ
       國の秀(ほ)も見ゆ

 解説:「ももちなる」を古事記の編者が「ももちだる」と表記しているが「な」音を
    「だ」と読み違えて表記している。モモチナルはモモチ(数多い・大規模な)
    ナル(助動詞「ナリ・~な・~という」の連体形)。ヤニハは矢(ヤ)場(ニ
    ハ) 秀(ほ)は兵士たちの可能性もある。
    この詩は青々とした葛野であるから、人里や、家庭はおかしい。
    ここは弓矢の練習場。クニノホは兵士と高い山を掛けたもの


②次は、古事記第四十三番の応神帝の「角鹿の蟹」の歌に入った。
記紀歌謡の中で最長の歌で、担当者は従来読みを読むだけで一杯だった。

橋本氏の読みと解説
    読み:この蟹や 何処(いづく)の蟹 百伝(ももづた)ふ ツヌガの蟹 横去らふ
       何処(いづく)に至る 市路(いちぢ)しま 三嶋に着(と)き
       鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息づき 階(しな)だゆふ ささなみ路を
       すくすくと 我(わ)が齋(い)ませばや 木幡(こはた)の道に
       淡(あは)しし乙女 後手(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも
       歯並(はなみ)は椎菱(しひひし)為(な)す いちひいの 丸邇地方(わに
       さ) の土(に)を 初土(はつに)は 肌(はだ)赤らけみ 下(し)土(はに)は
       土(に)黒(ぐろ)き故(ゆへ) 三つ栗(みつぐり)の その中つ土(に)を
       頭衝(かぶつ)く 真火には当てず 眉(まよ)画き 孤に画き垂れ 淡しし
       女性(おみな) 彼(か)もがと 我が見し子ら かくもがと 吾(あ)が見し子に
       うたたけだに 向かひ居るかも い添ひ居るかも

 解説:イチヂシマはイチヂ:市へ行く道、シマは(接尾語)早々・~の折、~の時に
    はもう。トキは着いて。シナダユフはシナ(坂)タユフ(タユミ・タユタヒと
    同じ、早く歩けない)ササナミヂは「なぎさの路」。スクスクトはずんずんと
    (行くと)。
    ワガイマセバヤは「齋ま」(齋むの未然形)+せ(謙譲の助動詞スの已然形)+
    ばや(連語、~したからであろうか)。で、「身を慎んでいたからであろうか」。
    アハシは、あっさり だが、ここは外見、すっきりしている。ウシロデは後ろ
    姿。ヲダテロカモは小楯かなア(ロは調子を整える接尾語)。ハナミハは歯並び
    は。シヒヒシナスは椎(の葉)・菱(の実)の様です(接尾語ナス)。イチヒイ
    ノはイチイガシ(イチヒ・食器)の、(イノはイは体言を表す接尾語)。ワニサ
    ノニヲは丸邇(わに)地方(サ・方向を表す接尾語)の土(ニ・粘土)。ハツニ
    は始めに掘り出す土。シハニは底土・下の方の土。ニグロキは黒い(ニグロシ
    の連体形)。カブツクは頭衝くで、頭が痛いほどから、ひどい、と解釈。マヒは
    特に強い火。アハシシヲミナは「すっきりした女性」。カモガは彼(カ・ああ)
    ~であってほしい(終助詞)。カクは、このように(副詞)。アガミシコラは我
    (ア)が見た(ミシ)愛しい乙女(コ)ら(ラ・接尾語、複数形にして婉曲な
    物言い)。ウタタケダニ(句義未詳)とあるが、「うたた」は(副詞・なぜか、
    困ったことに、まずいことに、嘆かわしいことに、などの意味、「け」は(気・
    様子、気配)「だに」は(~さえ、せめて~だけでも、~すら)で「困ったこと
    でさえあるが」。


③次に、古事記第四十四番「髪長ヒメに大御酒の器を持たせて太子にそれをすすめて」の詩と日本書紀第三十三番と比較しながら検討した。担当者は解釈と従来説を対比し、よく研究していた。
・古事記第四十四番の従来の読み
いざ子ども 野蒜(のびる)摘みに 蒜摘みに 我が行く道の 香(か)くはし 花
摘は上枝(ほつえ)は 鳥居枯(とりいが)らし 下枝(しづえ)は 人取り枯ら
し 三つ栗の 中つ枝(え)の ほつもり 赤ら嬢子(をとめ)を いざささば 良
らしな

橋本氏の読みと解説
     読み:いや子ども 野蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道の 香(かぐは)し 花摘
        は秀つ枝(ほつえ)は 鳥い枯(が)らし 下枝(しづえ)は 人取り枯ら
        し 三つ栗の 中つ枝の 秀つ山(ほつもり) 赤ら乙女を いや酒(ささ)
        ば 寄らしな

 解説:従来の読みの「いざ」は行動を起こすときの掛け声。この場合「いざ」は不
    適切。イヤは、呼びかけの言葉(そうそう)。ホツモリはホ(高い・秀)ツ
    (所属を示す格助詞)モリ(山)でひときわ目立つ。 アカラヲトメヲは、
    アカラ(赤みを帯びて美しい様)ヲトメ(乙女)ヲ(強意の間投助詞)。イ
    ヤササバは「そうそう(酒を)注(さ)すのならば」。 「ヨラシ」の「シ」
    は尊敬・丁寧の助動詞「す」連用形で、続く動作を省略している。ナ(汝・
    お前)は倒置法か。


・日本書紀第三十三番の従来読み
 いざ吾君(あぎ) 野に蒜摘みに 我が行く道の 香ぐはし 花摘 下枝(しづ
 え)らは 人皆取り 上枝(ほつえ)は 鳥居枯らし 三栗(みつぐり)の 中
 枝(なかつえ)の ふほごもり 赤れる嬢子(をとめ) いざさかばえな

橋本氏の読みと解説
     読み:いさ吾君(あぎ) 野(ぬ)に蒜(ひる)摘みに 蒜摘みに 我が行く
        道に     香(かぐは)し 花橘(はなたちばな) 下枝(しづえ)等(ら)
        は 人皆採    り 秀つ枝(ほつえ)は 鳥い枯らし 三つ栗の 中つ枝
        (え)の 含籠(ふ    ほごも)り 開かれる乙女 いざ栄映(さかばえ)な
 解説:この詩の場合も最初の「「さ」を「いざ」は同じ意味で不適切。
    イサは「いや・いやなに・ええと」等、相手に語りかけたり、はぐらか
    すときにも使う語。 シヅエラハは「下枝等は」。ホツエは「上枝」。フ
    ホゴモリは「中に含まりこもる」。アカレルはアカ(開く、明く・解放す
    る、の未然形)レ(受け身の助動詞「ル」の未然形)ル(完了の助動詞
    「リ」の連体形) イササカバエナはイサ(いや・なあ)サカバエ(栄
    え映える、下二段の未然形)ナ(他を勧誘・願望する終助詞、~だろう?)


④次に、古事記第四十五番に入り、日本書紀第三十四番と比較し読み進んだ。担当者も事前によく調べての説明だった。

・古事記第四十五番の従来読み
 水溜まる 依網(よさみ)の池の 堰杙(いぐひ)打ちが 挿しける知らに
 蒪(ぬなは)繰(く)り 延(は)へけく知らに 我が心しぞ いや愚(をこ)に
 して 今ぞ悔しき

橋本氏の読みと解説
     読み:水溜まる 依網(よさみ)の池の 堰杙(いぐひ)打ちが
        挿(さ)しける知らに 蒪(ぬなは)繰(くり) 延(は)へけく知らに
              我が心しぞ いや愚(をこ)にして 今ぞ悔しき
 解説:ヌナハクリはヌハナ(ジュンサイ・沼に根をおろし、水面に葉を浮かべる)
    クリ(自分の方に手繰り寄せる)。ハヘケクは延へ(ハヘ:想いをかける)
    +ケク(連語、~したこと)。 ココロシゾは心し(気を付ける)+ゾ(強
    意の係助詞)。ヲコは馬鹿げたことをすること。

・続いて、日本書紀第三十四番の「大鷦鷯命が喜びで答えて」の従来の読み
 水渟(たま)る 依網(よさみ)の池に 蒪(ぬなは)繰り 延(は)へけく知
 らに 堰杙築(いぐひつ)く 川俣江(かはまたえ)の菱茎(ひしがら)の さ
 しけく知らに 吾(あ)が心し いや愚(うこ)にして

橋本氏が次の読みと解説をされた。
     読み: 水溜まる 依網(よさみ)の池に ぬなは繰り 延(は)へけく知らに
        堰杙(いぐひ)築(つ)く 川俣江の 菱茎(ひしがら)の
        射(さ)しけく知らに 吾(あ)が情(こころ)し いや愚(うこ)にして
 解説:ヌナハクリはヌハナ(ジュンサイの花・揺れる女心)クリ(手繰る、の連
    用形)で「女心をつかもうとして」。ハヘケクシラニはハヘ(延へ)ケク(連
    語、~したこと)シラニ(知ら、知るの未然形)ニ(打消しの助動詞「ズ」
    の連用形)で「茎が伸びていたことも知らないで」。イグヒ(堰杙・川の水
    をせきと止めるための杭)ツク(築く・打ち込む)で「想いこがれていまし
    た」。ヒシガラはヒシ(菱・水草)ガラ(カラ・茎)。 アガココロシは我(ア)
    の(ガ)恋慕の情(ココロ)といったら(シ・強意の副詞)。イヤ(感嘆詞、
    いやはや)。ウコは(愚・ヲコ・馬鹿・あほう)。


        この二つの詩は似ている詩ですが、読み手がそれぞれ応神帝と、太子(仁徳)
    で異なっており、立場が違っていることを理解して読む必要があります。


2.次回の予定  次は古事記の第四十六番から研究する。
10月14日(土) 13:00~15:00 場所 久松町区民館
以上