2017年 9月 9日(土)の『和田家文書』研究会の報告 

 
◆第13回 『和田家文書』研究会 
  平成29年9月 9日(土)午後3時~5時 於人形町区民館  
報告者 安彦克己 
 出席者 22名 
 


(一)聖徳太子の没年月日
太子没年月日については、『日本書紀』では太子と蘇我馬子が『天皇記』『国記』の編纂を始め
たその翌年、推古二十九年春二月に突然の死去と悲しむ民の姿を記している。  
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突然の死去で人々が悲しみにくれた政治家にJFケネディー大統領がいる。
太子の死去という重大ニュースである年月日に関して、通説は『日本書紀』の記述に反して、
「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」を基にして推古三十年二月二十二日としている。岩波の『日
本文学大系』の頭注では「天寿国刺繍帳」と「聖徳太子伝私記法起寺塔婆露盤銘」をも援用し
ている。
この説に対して古田武彦氏は『古代は輝いていた』第三巻で、論拠を示してこの通説を鋭く批
判し、成り立たないと断じられた。
今年四月に岩波書店から出版された岩波ジュニア新書『聖徳太子』―本当の姿を求めて―(著
者・奈良大学名誉教授東野治之氏)が出版された。編集の意図は中高生にも判りやすく、正し
い歴史を若いうちから知ってもらうためと想像した。しかし驚いたことにこの本は古田氏の研
究成果に全く触れていない。

東野氏は、釈迦三尊光背銘にある「法興元」を「私年号」として「九州年号」の存在に言及し
ていない。そのために説明に大変苦労しているが。また『隋書俀國伝』にある「有阿蘇山其石
無故火起接天者」の記述に触れずに遣隋使を語る。こうした論調には、学問の到達点との乖離
に正直落胆するとともに、岩波ブランドの劣化を感じる。買ってはいけない本として紹介した。
○『輝いていた』Ⅲの上梓前年(一九八四)に『佛教史學研究』第二六巻、第二号(佛教史學
會)に掲載された古田氏の論文「法隆寺釈迦三尊の史料批判』―光背銘文をめぐって―の第一
章をよむ。
この論文は古田氏の古代史に於ける学問成果を俯瞰することができ、また氏の真骨頂である学
問の方法にも深く接することが出来る論文として紹介した。


(二)石舞台古墳について
 『日本書紀』の蘇我馬子死去の記事について、岩波の『日本文学大系』の頭注には「奈良県
高市郡明日香村島の庄にあり早く封土を失い、巨石を用いた石室が露出していた。昭和八年・
十年に発掘調査が行われ」たとある。
その報告書「高市郡高市村島庄石舞臺古墳調査報告」は昭和十二年十月『奈良縣史跡名勝天然
記念物調査報告 第十四册』に納められている。京都大学考古学教室の濱田耕作氏の指導の下、
末永雅夫氏がまとめた。

調査以前の石舞台は「畠中に一群の巨石が…積み重なり…誰人も眼を見張る」とあり、嘉永年
間に出た『西國三十三所名所図会』には「伝天武天皇の仮に葬りし」古跡とあり、学問的調査
はこの時が初めて行われたとわかる。そして「かくも大きな石室がその上に被っている封土を
全部喪って殆ど全裸体の姿になって平野に暴露していることは、他に余りその類を見ない」と
この古墳の特徴を記している。

この報告書と昭和四十三年の末永氏の著書『考古学の窓』から、考古学的知見内容を箇条書きにすると、
○「封土を全部喪って、殆ど全裸體の姿」
○「平野に暴露していることは、他にも…類を見ない」
○「羨道の入り口が解らない」
○「羨道の天井石はほとんど崩れている」
○「石棺はなかった」
○「松香石の断片(石棺の質材として用ゐられる)は、石棺が他に運び去られる際に破損し残っ
たものか」
○「むざんな破壊の爪あとを残されていた」
○「副葬品は一切なし」
○「随所に土器破片、銭貨等が挾在しているのみ」
として、「徹底的に盗掘を受けていた」と結論づけている。


また被葬者については、この報告書は明治四十五年喜田貞吉が『歴史地理』に発表した
「蘇我馬子桃原墓の推定 希有の大石槨島庄石舞台の研究」の「其の地方に他に斯かる偉大
なる墳墓の主人公として擬定す可き程の人物甞て無かりしとすれば…暫く其の墓を以て馬
子の桃原墓なる可しと仮定して甚しく不可なきを信ず」
とした説を「最も有力なる仮説とする他はないであろう」として踏襲している。
この説から石舞台古墳は蘇我馬子墓であるという通説が現在も語られている。しかし、この通
説は正しい歴史を伝えているのだろうか。

(三)『和田家文書』の石舞台古墳
『和田家文書』ではどのように記されているか見てみよう。
史料は三十七本もある。その中で代表的な史料として⑮「丑寅日本国号由来」を次に挙げる。
(カッコに内容を要約したタイトルを付けた。)



⑮「丑寅日本国号由来」 (『和田家資料』1 二四五頁)
「(所在)  …此の天皇記、国記ぞ倭(やまと)朝に無かりけり。
(所持者蝦夷)大化乙巳の変にて蘇我蝦夷より奪取せんとて、
(首謀者)  蘇我氏天誅に、中大兄皇子の宣を奉じて甘橿丘を攻め、蘇我館に火箭を放つ
て灾るも、
(参謀)  その参謀に当たりたる船史恵尺が火中より得ること能はざりきと世に伝ふも、
(蝦夷機転) 蘇我蝦夷は是事の起らんを覚りて、坂東なる荒覇吐神社移密保護し置けり。
(墳墓の暴き)依て、蝦夷の墳墓までもあばかれ、その玄室を風雨に今尚さらされけむ
(最終所在地) 天皇記及び国記ぞ東奥にありて、世に顕れずと世に伝ふなり。
右、坂東記より。
 寛文二年正月三日     浅利与之介 」


(墳墓の暴き)について他の和田家史料は
 「蝦夷の古墓に至るまで解掘さる跡ぞ、石舞台とて残りき」(③)
「土除きて石室玄棺を壊砕して探せど…」(⑥)
「(蝦夷が)生前より築きし陵墓に葬さるを、玄室まで土盛を除かれ、あばかれしかは天皇
記国記の探査の故なり」(⑮、㉓)
「蘇我氏の陵墓を掘り荒らしたるは、中大兄皇子にて八十日を土人を徴してあばきたり。即
ち、天皇記の焼けざるを…捜掘なり。」(㉒)
「蝦夷の墓は,土をはがしめ、石の玄室までも崩壊されしきは、今になる石舞台と称されし
處なり」(T②)
「既築の己墓玄室に隠書せしものとて…」(T⑧)
「あわれ蝦夷の墓ぞ、今に露座にさらされぬ」(T⑯)
「(朝庭は)焼失せるを信ぜず、蝦夷の陵をあばきけるも空しけり。その惨たるあばきぞ彼
の石舞臺と称されし蝦夷の墓なり。盛土ことごとく崩されて、さらさるまゝに今に遺りぬ」
(T㉓)
とある。

この暴き記録と末永氏の記事とは整合性があり矛盾がない。ならば、石舞台古墳の被葬者は馬
子とするより蝦夷とした方が論理的である。
また暴きの首謀者については、言及した学者はいないが、『和田家文書』では全ての史料で中
大兄皇子としている。


(四)中大兄は何故古墳を暴いたか。
古墳として希に見る特徴、暴かれた姿についても通説派の学者はその理由を誰も答えていない。
『和田家文書』にはその理由が書かれている。


史料② ;天皇氏にとって「障りとなりきは本来なる実記天皇記及び国記なり」
T⑯、⑤;「十族王(豪族)より勢を以て国統に当れるは天皇氏にて、その氏族に反忠を奸計
せしは天皇氏にして、物部蘇我の両氏相討の画策を企てるは天皇家なり。それら天皇家の一
切を記述せるは天皇記にして、上宮太子を暗殺せし一切も含む。(中略) 天皇家にとりて
支障とぞなりかねざる天皇記及び国記…」
㉖;「天皇記、衆に露見せば須(すべから)く天皇の累系民の信を欠くる大事なり」
T⑨;「天皇記、国記はその実をあからさまなる故に蘇我氏の掌握より奪はんとて」
T⑬;「倭国にして大王一統成れるは、代々降りて越よりまかりき世に継體天皇と伝ふる大王
より、倭国は一統の兆しありぬと曰ふなり。是の如く明細あるは倭の國記及び天皇記なり」


以上の史料から推すと、天皇家にとっては差し障りがある内容が書かれている『天皇記』『国
記』を蘇我家から奪取するため、当主の蝦夷の死後、墓まで暴き探捜した。そのため当時から
露座の姿になっている、と読める。

次に蘇我氏と物部氏との争いを仕組み、聖徳太子を暗殺したのも天皇家であるとする和田末
吉の明治写本を挙げる。

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大福帳の裏を再利用した明治写本、「東北陸羽史談一」から。
 
天皇家が隠蔽したかった大きなテーマとして、その一は、天皇家は継体天皇より統一へ始動し
始めたこと、その二は、(a)物部氏と蘇我氏との争いを天皇氏が画策した。(b)天皇氏が上
宮太子を暗殺した、である。

天皇氏が聖徳太子を暗殺したとする記述については、おしいかな支える別の史料を今のとこ
ろ発見できないでいる。しかし冒頭に示した『書紀』が伝える太子の死去記事は、あたかもケ
ネディー大統領の突然の死去で世界中が悲しんだと同様に、老若男女が太子の死去に悲しみに
暮れている様子を活写している。推古天皇の病没死の記述と比べても明らかに違うことから、
ここには太子に死去の真相が隠されているのではないだろうか。『和田家文書』は憚ることな
く伝えている。