2017年10月14日(土)の『和田家文書』研究会の報告
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◆第14回 『和田家文書』研究会
平成29年10月14日(土)午後3時~5時 於久松町区民館 報告者 安彦克己 出席者 20名 |
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(一)古田武彦氏三回忌
この日は奇しくも古田先生の三回忌にあたり、生前の先生から受けた学恩と人柄を偲び、出席
者全員で黙祷した。
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(二)「法隆寺釈迦三尊の史料批判』-光背銘文をめぐって―
『佛教史學研究』に掲載された古田氏の論文の感想をだしあう。
○『古代は輝いていたⅢ』よりもわかりやすい。
○友人に読むよう勧めたら「とてもおもしろかった」の感想をもらった。
○熟読した。素晴らしい論文である。この論文に出現する『上宮聖徳法王帝説』を今読み直し
ている。古田氏と多少見解を異にする感想を持った。また太子没年月日についても、『日本書
紀』が間違えたのではないか、とする仮説をもって各史料を読み直す必要があるのではないか。
○東京出張で特別に出席していた古田史学の会会長古賀達也氏から、『日本書紀』編纂時は疫
病と飢饉で国政が混乱している時期であった、との解説があった。
○また関連して、NHKの番組「ヒストリア」で放映された「聖徳太子」は古田氏の学問の成
果を無視しているとの報告があった。
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(三)大船渡の長安寺と釜石の尾崎神社
(1)長安寺 大船渡市日頃市町
『和田家文書』に「気仙盛川の辺に長安寺あり。安倍国東日本将軍が勧進せる古寺なりき」
とある。(『東日流六郡誌大要』三五七頁)
社伝によれば、創建した正善坊は前九年の役で源頼義軍に味方した気仙郡司金為時の四代目
嫡孫であるとしている。
『和田家文書』では金為時については次のように記されている。
○「安倍日下将軍頼時
奥州六郡郡司、更に陸奥、出羽の国司と相成りて(略)源氏と戦う。天喜五年金為時の為
に流矢に殉ず。」(『東日流外三郡誌』第6巻 二八八頁)
○ 「安東雑記
(安倍)富忠、(安倍)一族に馴まず、反忠者となりて清原氏と通じ、頻良亡きあと安倍頼
良を矢にかけ、忿怒に燃えた安倍貞任に討たれたと曰ふ。」
とある。(『東日流六郡誌大要』二六二頁)
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金比呂正住職にお話を伺った。
「二一代までは天台宗、明徳年間から真宗に改宗した。正善坊から数えて四二代目。この辺り
は金が出土する。明治期に近くの鹿折鉱山から発見された金塊はモンスターゴールドとよば
れ、パリ博覧会に出品した。金姓は採金の仕事をしていて、20軒程。金の採掘は資料を残
さない。金野、今野姓が多い。」
『和田家文書』には、水島島足という牡鹿半島の長官が大和朝廷に金塊を献上し官位を受け、
帰国しなかったとする、歴史が書かれている。史料をまとめたい。
(2)石巻の尾崎神社
『和田家文書』には製鉄の産地として釜石と尾崎が挙がる。
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台風18号による大雨で釜石市街は水没し甲子川で交通止めとなり、市内の高台にある尾崎
神社に向かうことが出来ない。客待ちのタクシードライバーから「市内の尾崎神社は明治二九
年の津波で移ってきた社。本来の神社は尾崎白浜にある。今日は市内に入れないから宮司は地
元にいるかも知れない」との教示。来た道を平田まで戻り、尾崎白浜に向かう。小高い丘の上
に尾崎神社の社があり境内で奉剣を見つけた。
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宮司の佐々木裕基氏のご母堂からお聞きした。
「佐々木四郎高綱の末裔で、三四・五代続く社家である。この辺りは鉄、マンガンが採れる。
山坂を三つほど超えると奥宮がある。今春の大規模な山火事ではかろうじて燃えないで済んだ。
尾崎神社の釜石曳舟祭はとても勇壮な祭りです」と。
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平凡社「地名辞典」によれば尾崎神社は「鎌倉期、閉伊地方を開拓した閉伊頼基の霊を祀っ
たところで本宮は船越浦、田の浜崎(下閉伊山田町)にある荒神社で、尾崎白浜の神社はその
新宮である(『尾崎大明神御本地』)」という。
荒神社がある船越半島の霞露(がろ)が岳には巨石をご神体とした荒覇吐神社があり、また多々
羅山の山名も残る。
「がろが岳 東に海の 日の出山 山田の里も 荒覇吐神」(『和田家資料』3 一七六頁)。
とある。いつか訪れたい。
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(四)『天皇記』『国記』移動の経緯
『和田家文書』によれば蘇我蝦夷は『天皇記』『国記』を中大兄皇子からの簒奪を防ぐため、
機転を利かし秩父の荒覇吐神社に隠し、次いで下總豊田郡の平将門の神皇社に保管された、と
ある。
(1)『和田家文書』の史料を一覧表
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史料数は三〇本あり、機転を利かした蘇我蝦夷については十九本が触れている。
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(2)和銅山荒覇吐神社
一覧表から最初に隠した場所として秩父荒覇吐神社が多い。
該当する神社を推定すれば次の四社だろう。
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① 秩父神社 明要六年の年号が記載されている天正年間の棟札が保管されている。
② 聖明神社 『新編武蔵風土記稿』には「神体は景雲年中和銅山より掘り出せしが…」とあ
り、金山とも呼ばれた和銅山に近い。
③ 大元三宝荒神社 定峰川の右岸にある。社名から祭神は荒覇吐神であろう。
④ 山之神大神社 山神は荒覇吐神である。
②、③、④の三社は、和銅山の峠(曽根坂峠)近くに鎮まっている。実踏したい。
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(3)将門の豊田神皇社
『天皇記』『国記』が秩父から下妻の豊田を本貫として活躍した平将門の神皇社に移された
とする史料は二十本ある。
『和田家文書』の史料を挙げよう。
「然るに由ありて平将門の手に入りて豊田神皇社にありきを…」(和2 105頁)
「是を豊田郷の荒覇吐社に秘像せしを、世々に降りて平将門、この社を神皇社とて祀りき。」
(和2 109頁)
では、将門の神皇社は現在も存在するか検証してみる。
つぎに明治期の『結城郡図』を挙げる。
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①この地域は古来岡田郡とされていたが、延喜四年からは豊田郡と郡名が変えられた。江戸初
期に郡中央を流れる鬼怒川と小貝川の間を豊田郡、鬼怒川西側を岡田郡と改め、古来の岡田郡
が復活するという経過があった。
②将門の時代は当然豊田郡が広域だった時代に当たる。『将門記』に出現する四箇の地名はい
ずれも鬼怒川の西側の地域で比定されている。その中で将門の本貫である鎌輪は、地名が鎌庭
となり、昭和初期に鬼怒川の流れを変えたことから現在は川の東側に位置している。
③地図の上で神社の記号(鳥居)は三個見いだせる。
菅原村(現・坂東市岩井)の神社は国王神社、岡田村の神社は桑原神社(常総市国生)、鎌
庭の東、宗道村にあるのが宗任神社、別名宗道神社である。
この三社は何れも平将門と関連する由緒を持つが、本貫である鎌輪に近い宗任神社が地理上か
ら一番可能性がある。
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宮司の松本秀勝氏にうかがった。(注)「宗任神社宮司聞き書きメモ」から必要な箇所を引く。
(ア)将門と荒覇吐神・宗任神社
①(平将門と安倍氏)
将門の父親、平良将(良持)が(陸奥国鎮守府将軍として)赴任していた時、安倍氏と親交を
もち、将門が豊田郷を開拓するときに安倍氏は加勢し、労働力と奥州産馬を提供したという。
「将門の乱」の際も将門を助けたという。
②(神明社)
将門の父の代から伊勢神宮の相馬御厨を管理していたため、豊田郷開拓時にはこの地に神明
社を建立し祀っていた。本殿の奥に明神社の祠がある。境内社格(位取り)は一番目。
④(荒覇吐神)
明治の神仏分離のときアラハバキを祀っていた八輪寺(社)はその後先祖を祀る墓地となっ
ている。元は当社境内だったが道路工事で今は道の向こう側になった。アラハバキは神明社の
祭神のひとつ。ご神体の立石は八輪寺(社)社家の解体時に屋敷神祠の下から見つかったが、今
どこにあるか分からなくなっている。
⑧(宗任神社勧請)
宗任の家臣松本七郎秀則は、鳥海山の城から宗任の兜や鎧を捧持して、将門が祀った神明
社・アラハバキ神社境内に天仁二年に宗任公を祀った。現宮司は秀則から数えて34代目にな
る。中世は豊田郡黒窠(くろす)郷宗道と呼んだ。
⑨(松本秀則)
秀則は家臣となっているが、事実は宗任の実子である。このことは絶対に他言するなと、伝
えられている。
前九年の役終了時(一〇六二)、秀則は五歳だった。(秀則がこの地に宗任公を祀った天仁二
年(一一〇九)は五十二歳になる)
㉕(豊田の阿部神社)
現在の豊田、本豊田(石下町の東方)はこの地に豊田四郎が来てからの地名。松本家は豊田
家の台所の会計を預かっていたので、宗任神社に日参していた。社前には下馬の場所を意味す
る「駒止め」という地名も残っている。
この地が多賀谷領となって自由に参拝出来なくなり、豊田地区に当社を分祀して「御代之宮」を
祀った。これが現在の「阿部神社」。当社の御分社で、松本氏の従兄弟が宮司を務めている。
㉖(桑原神社)
将門と縁の桑原神社も当社が管理して息子が宮司を務めている。
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さらに『和田家文書』の『北鑑』第24巻から二本を挙げる。
①「吾が郷は古にして平將門が知行せし下總に御座候。筑波の靈峰を東北に望み、鬼怒川、利
根川、小貝川、御座候。平將門が平良兼と戦闘せしは、地民の傳に子飼の渡と曰ふ傳ひぞ、
今に遺り居り候。將門を祀りき社(旧あらはゞき神社)も御座候。国王神社に候は、將門像
ありて候も、氏子、是を世視にぞ禁じ居り候。吾が郷かしこに將門を奉る傳説多く遺り居り
候。折に江戸見物に参らせる事御座候はんに立寄り下さるべく。
文化三年八月十日 間宮林藏
御老僧机下」
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②「なかなかにみちのくの古事に細なる傳記に得る事難し。各藩こぞりて日本将軍の事跡を取
潰せるに依れり。惜むらくは、天皇記、国記を蔵せし下總の荒覇吐神社成り。」
平将門が鎮守
以上から、想像するに、
「将門の豊田神皇社は廃社あるいは寂れていたが、宗任と縁ある松本秀則とその家臣たちが同
じ地に宗任の甲冑などを捧持して宗任神社を建立した」
ということではないだろうか。
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(イ)宗任神社の縁起と『和田家文書』の関係
宗任神社には元永年間に松本秀則、秀元親子によって記された長編の『縁起書』が保管され
ている。1頁と最後の部分の読み下し文を挙げる。
1頁目
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「慎み敬いて白(もうし)言う。奥州の住人阿部(安倍)氏の下臣、神職の松本七郎秀則、愚
息長男八郎秀元、かたじけなくも神の教えを蒙り、総の下州豊田郡宗道郷宗任大明神の因縁起
来由を書き記し、以て倉祠の宝殿に納むるの事、左の件の長編の如し」
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最終頁
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「仍て祭主親子、洗手漱口して、誠惶稽首し、恭敬して欽書す。維れ皇朝元永の暦己亥の歳(元
永二年 1119)晩秋良辰吉日」
驚いたことに『和田家文書』には、この松本秀則が書いた「宗任雑記」が採録されている。
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(『和田家資料』1 三一四頁)
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再度訪問したとき松本宮司にお見せし伺った。
㉑(『和田家文書』の松本秀則)
『和田家文書』については、知らない。「宗任雑記」についても初めて見た。松本秀則が文
献に載っているのには驚いた。
㉒(和田喜八郎氏との面識)
和田喜八郎氏については全く知らない、面識がない。
松本氏がしばらく沈黙したあとにぼそっと発言された姿を印象深く覚えている。
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(ウ)千代川邑問題
宗任神社の旧住所名は茨城県結城郡千代川村本宗道である。千代川村は、文政十二年五月に江
連用水開通時の普請総見回役市村宗四郎の一句「樋開きや豊田郷の千代の水」にちなんで昭和
三〇年に名付けられ誕生した。
ところが『和田家文書』末吉の「明治写本」に「千代川邑」が出現する。
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(陸奥史審抄全)
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(丑寅日本雑記)
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普請役市村宗四郎が江連用水開通式典で「千代の水」と詠むには、巷間この地域に「千代」の
地名があったのではと推定している。
神社の裏には煉瓦造りの水門「江連用水旧溝宮裏両樋」学に津録文化財に指定されている。
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(注)東京古田会140号(2011年9月)
この「聞き書き」は東京京古田会の田中巌、福田健、橘髙修、橘高始子、藤澤徹、安彦克己に
よってまとめられた。
宗任神社 茨城県下妻市本宗道九十一番地
祭神 安倍宗任公 安倍貞任公
宮司 松本秀勝氏
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