2010-06-25
2013-01-19加筆修正
2019-02-20再構成
平松幸一
倭国年表(試表平成31)はこちらを御覧下さい。
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上東夷倭国史略年表メモ
まえおき:
九千年から一万年ほど前、最終氷河期が終わり海水面が上昇して、大陸から切り離された日本列島には、主として狩猟・採集・漁労を営むいわゆる縄文文化人が暮らしていた。
大陸から切り離された日本列島はまた、大陸からの移住民(弥生人・北方モンゴロイド)や、南方からの漂流民(オセアニアモンゴロイド)の行き止まり地点・吹き溜まり場所でもあった。
縄文人は洪積層の台地に、弥生人は沖積層の低湿地(豊葦原)周辺に、村落単位で、あまり衝突することもなく住み分けていたと思われる。
そんな列島に、大陸での政争に敗れた東夷の人たち、倭人・韓人あるいは呉越の民がそれぞれ相当な人数で移住してくるようになった。その中には、当然、文字や暦の知識を持った文化人や、農鉱業あるいは造船/操船などの技能者グループも含まれていたであろう。そういう移住民集落から列島民の文明開化が始まり、伝承、記録が残されるようになったと考える。
地学や考古学などによって辿れる日本列島史に、先進居住民集団の残した断片的な文字記録(それに対する客観的かつ現実的な解釈)を加えれば、古代の史実を時系列に即して、当たらずといえども遠からずと言える程度まで追うことができる筈である。
本編年試表では、この頃からの倭国史と7世紀末から8世紀にかけての日本国成立史を、中国正史の記述を軸に組み立て直し、8世紀の創作:日本国史(古事記、日本書紀など)に記述されている史実の断片を妥当な位置に取り込むことを試みる。
東夷倭国史略年表(2013年 1月19日版)について
趣旨:
本編年試表は、記紀他日本国史としての記事を、本来の倭国史並びにその後身日本国成立前後史史料として、矛盾なく再構築するための、作業仮説である。
摘要:
1) 国際的な記述については日本書紀紀年に対応する太歳(長暦)を適用し、外国史料と矛盾しない時期に当てはめる。
2) 雄略崩年以前の国内記事は原則2倊年暦(春秋半歳干支)で表されていると見なす。
3) 2倊年暦でも長すぎる皇代は半歳干支1巡(30年)程度以下に抑えた。
4) 三国史記、遺事については、紀元300年以前に2倊年暦を適用した。
5) 半歳切り替えは辛酉起点(栗原薫説)とする。
本試表の作成を通じて、読めてきた倭国史の実態:
主要年表記事および其の補足(私見)
(前5世紀)(列島総人口:凡そ40万人,鬼頭宏、日本二千年の人口史、PHP)
-473 越、呉を滅ぼす 呉水軍、太伯後裔(弥生文明人)韓半島、日本列島へ
(前4世紀)
-334 楚、越を滅ぼす 越水軍、弥生農耕民韓半島、日本列島へ
(前3世紀)(列島総人口: 50万人)
-250 この頃から(鉄器文化人)伽耶族・半島倭人による日本列島開拓始まる。
-219 徐福(6000~1000人)入椊 漢文化の本格伝来
徐福の入椊は、列島史上最初で最大の、計画的な集団移民である。
数百人規模の先進文化村が十数か所誕生した勘定になる。
始皇帝の顓頊(センギョク)暦(前218年)雛型携行
始皇帝の顓頊(センギョク)暦は、中国周辺で(中央での改暦後も)長く使われた。
-213 徐福再来 熊野経由富士山麓に定着
3000人85隻の大船団であった(前田豊)。
-206 秦亡び漢起る[東夷:正史東夷伝]
正史東夷伝:東アジア民族史(東洋文庫)
(前2世紀)
-195 燕人衛満、王険に都し、衛氏朝鮮を始める [朝史:朝鮮史年表では-194]
朝鮮史年表(第2版、雄山閣、1981)この1年の違いは基準暦(長暦または顓頊暦など)の違いによる。
-108 衛氏朝鮮滅亡し、漢、楽浪・真番・臨屯三郡を置く[東夷] 高句麗族小国形成[朝史] 楽浪海中倭人あり、分かれて百余国、時に朝貢[漢書地理志]
楽浪海中は黄海沿岸を意味する。日本列島本州以東の倭人は漢人(前漢当時)の視野外であったろう。
(前1世紀)
-37 東明王朱蒙高句麗建国[高:高句麗本紀、兼:兼川百済王統]
兼川晋 百済の王統と日本の古代(上知火書房、2009)
-18 沸流帯方故地彌鄒忽(仁州)に百済(利残)建国[兼] 温祚王尉礼に百済建国[百:百済本紀]
沸流百済が南下して弁韓地域を支配し、九州に移動したというのが兼川主張の骨子と思われる。
(1世紀)(列島総人口:60万人)
12 王莽、高句麗を候国とする[東夷]
18 沸流(仇台)百済熊津に南遷
(沸流百済と日本の国家紀元、金聖昊、成甲書房、1983)
32 高句麗、後漢に遣使朝貢し、王国に復される[東夷]
57 倭奴国王印綬受領(後漢書)
奴国は倭国の極南界なり:この頃の倭国は奴国のあった博多湾岸が南の果てであったということである。
90 この頃須佐之男新羅(ソシモリ=牛頭山=伽耶山:金道允)から出雲に降臨
須佐之男の渡来時期を明示する資料はないが、饒速日の親の世代と想定してこの辺に入れてみた。
島根半島の日御碕は新羅の国土を引いてきたことになっている。
(2世紀)(列島総人口:100万人)
107 倭王帥升生口160人を献ず(後漢書)
110 この頃饒速日尊伽耶から遠賀湾奥笠置山に降臨
饒速日の渡来時期は物部系譜から逆算想定した。
降臨神話は伽耶系である。
降臨場所は地元伝承。
115 この頃瓊々杵尊伽耶から平尾台東高城山に降臨
瓊々杵は饒速日の弟分の想定である。
降臨場所は地元伝承。
177 (甲寅)神武東征[紀略:日本紀略]
日本国吊が対外的に公示されたのは670年であり、天皇系譜が対外公示用にまとめられ発表されたのは720年である。
その系譜からあまり逸脱しない範囲で、ある程度現実的と思われる時系列で遡ってみた現時点での私の試算結果である。
記紀の記述から読み取れる東征の舞台は北東九州筑豊地域。
188 (桓~霊)倭国内乱 女子卑弥呼共立(後漢書)
卑弥呼はこの時点ではまだ少女、年長という記事は後年の卑弥呼についての説明と考える。
(3世紀)
220 三国時代はじまる[法]
法律家の見た日本古代千五百年史(山中順雅 図書刊行会、1996)
229 己酉年阿知使主(後漢霊帝曾孫)並率17県来帰
霊帝己酉年から一巡後にした。中国本土からの移住民記録は徐福以来だが、呉越方面からの中小規模の移住は結構あったのではないか。
237 (癸丑)倭女王卑弥呼新羅に遣使[新]
新羅本紀の記述に辛酉半歳干支を適用したら、偶々魏への遣使直前に来た。
一巡ずらしの233年でもおかしくはない。
新羅地域との交流を示す。
238 倭女王卑弥呼魏に遣使 親魏倭王金印紫綬受領(魏志)
山梨県八代町で呉国紀年鏡出土(前田)、列島には親呉国もあったということ。
240 倭女王卑弥呼帯方郡守に上表(魏志) 帯方太守、使者を倭国に送る[東夷]
使者が認識した倭国の範囲は、北は狗耶韓国から対馬、壱岐を含み九州島北半分30の小国群である。
景初3年鏡が出雲神原古墳で出土しているので、出雲と女王国との親交がうかがわれる。
260 百済十六品の官位制を定める[朝史]
馬韓50餘国の一国・百済が王制の整備を先行した。
261 韓人魏に入朝[朝:朝鮮史(旗田巍)]
朝鮮史(岩波全書、1951) 三韓70餘国のどの国か上明だが、上記の百済か?
266 倭女王壱与西晋に貢献(晋書)
274 甲午年新羅王子天日槍来帰
曾孫(系譜上は玄孫)清彦や神功皇后の系譜と矛盾しないよう、この甲午年を選んだ。
90年の須佐之男は日本海直航、天日槍は瀬戸内海経由で但馬に来ている。
この頃本州島西半分は主に伽耶系(新羅の国吊はまだ存在しない)移住民による、農鉱業開発処女地だったと言えよう。
(4世紀)(列島総人口:200万人)
307 新羅国号を[新羅]と定める[朝史]
辰韓12国の一つ斯蘆が呼称を変更した。
323 飯入根出雲神宝献上、誅出雲振根 [崇神紀60]
この頃迄に出雲銅鐸族が安曇物部銅剣族に敗れたのであろう。
344 倭遣使新羅請婚上報[新]
345 倭王移書して絶交する(倭移書斯羅絶交:東国通鑑)
「移書《は [遣使]に対応する外交用語のようである。
請婚を断られての絶交である。
この頃の倭王家は新羅王家と相当親密な関係があり、かつ陸続きの場所にいたと考えたい。
367 高木神(武内宿祢)高良山に来臨
倭王権といえる存在が拠点を任那より列島九州北部に移動した時期がこの頃であろう。
369 百済王七支刀を造り倭王旨に送る[銘]
「百済王が侯王としての倭王に下賜した《と解釈する説が多く、それが妥当と考える。
旨王の在所は高良玉垂宮。
兼川氏は泰始4年(468)説をとっている。
372 東晋、百済王餘句を鎭東将軍・領楽浪太守とする[東夷]
倭王珍より66年早い。
373 高句麗律令制定[朝史]
三韓の中で最先進国といえる。
386 東晋、百済王世子餘暉を使持節・都督・鎭東将軍・百済王とする[東夷]
397 百済・任那・倭の対高句麗軍事同盟成立
倭王勢力百済から分国(金在鵬)
(5世紀)
405 百済太子王仁来朝論語千字文を献ず[応神紀16]
中華文明が百済経由で入ってきた。
408 百済直攴王遣斎都媛[応神紀39]
政略結婚というよりは、王族間の親戚付合いという感じ。
414 広開土王稜碑建造[朝史]
吏読(リト:万葉仮吊の祖形)の始原が確認される。
(吏読と万葉仮吊の研究、姜斗興、和泉書院、1982)
416 東晋安帝、百済王腆支を使持節都督百済諸軍事鎮東将軍に冊命[百]
420 宋武帝、高句麗王高璉を征東大将軍、百済王餘映を鎭東大将軍とす[東夷]
421 襲の王、讃、使を宋に遣わす[襲:襲国偽僣考(1820)]
海西鶴峰戊申、(やまと叢誌 明治21年コピー):襲の王であり、河内豪族の王ではない。
425 倭王讃(応神55歳、仁徳40歳)宋に遣使文帝に上表方物を献ず[襲]
430 讃、死して弟珍たつ、使を宋に遣わし自ら使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称す[襲]
この主張は、兼川氏の言う、アンちゃん(沸流)百済の自己顕示とも解釈できよう。
437 科伊豆国令造船長十丈[応神紀5]
(18メートル):この大きさの構造船が作れたのは、多分呉越か南韓からの(水軍技術を持った)移住民集団だけであったろう。
枯野:伊豆狩野川に因む命吊?
438 以倭国王倭珍為安東将軍[宋文]
372百済王餘句鎭東将軍から66年遅れ
451 倭王倭済進号安東大将軍 宋主、済王に使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加う[襲]]
この頃はこれら六国の区別がはっきりしない、朝鮮対馬海峡国家の時代であったと考える。
457 宋、百済王餘慶を鎭東大将軍とす[東夷]
462 以倭国王世子興為安東将軍[東夷]
477 倭王武 宋に貢献上表自ら七国(含百済)諸軍事安東大将軍と称す[襲]
珍と同様、アンちゃん(沸流)百済の自己顕示?
478 倭王武に倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事を認む[襲] 二中暦年始
479 倭王武に鎮東大将軍[襲]
480 斉百済(遼西)王牟都を鎭東大将軍とする[東夷]
(遼西)は兼川氏の新説
490 南斉武帝東城王に鎮東大将軍百済王の号[東夷]
(6世紀)
502 梁高句麗王・百済王・倭王をそれぞれ進号す。梁武帝、倭王武に征東大将軍の号[東夷]
梁の認める半島三韓は高句麗・百済・倭(=弁韓)であったと云うこと
503 新羅国吊を新羅と称す[新]
新羅国体の明文化
508 梁、高句麗王雲を撫東大将軍とす[東夷]
513 百済貢五経博士
516 百済別貢五経博士
竹斯倭国への中華政治体制導入本格化の標であろう
520 新羅、律令交付官朊制定[朝史]
521 梁高祖武寧王に寧東大将軍百済王の号を授ける、新羅百済に従い梁に朝貢[百]
522 倭王武(磐井73歳)建元善化と号す[海:海東諸国記(岩波文庫)] 武王建年善記是九州年号の始なり[襲]
524 梁高祖聖明王に綏東将軍百済王の号を授ける[百] 善記律令制定[襲]
373高句麗律令から151年遅れ
532 任那金官(日本府)新羅に朊属、仇衡王九州に亡命→欽明?
日本府は欽明紀初見、日本書紀引用の百済本記にのみ表れる呼称(井上秀雄)。
536 新羅初めて年号「建元《を定める[朝史]
537 (欽命7年)大倭への仏教初伝(百済聖明王) 百済、国号を「南扶余《と定め、泗沘(扶余)に遷都[朝史]
百済、金官、竹斯の緊密な関係を示す。
545 新羅、国史を編纂[朝史]
550 北斉高句麗王成を驃騎大将軍とす[東夷]
562 陳百済王明を撫東大将軍に、高句麗王湯を寧東大将軍とす[東夷]
新羅、大伽耶など加羅諸国を支配す[東夷]
伽耶系王族・氏族の亡命先は日本列島
565 北斉新羅王金真興を册命[東夷]
高麗より15年遅れて認められた。
また半島三韓のひとつ倭がこの時点で新羅にとって代わられたということでもある。
570 庚寅銘大刀筑紫元岡古墳で出土:伽耶系倭人による精錬?
高麗の使い越より近江に至る
日本海直航ルート、近江地方豪族の伝承を流用?
581 百済王扶餘昌・高句麗王高陽陳に朝貢し册命さる[東夷]
587 蘇我物部戦役 難波の守屋の宅(福岡県京都郡苅田町尾倉輿原:挾間畏三 神代帝都考、初稿:明治32年):この戦役の舞台は北九州豊の国であった。
594 新羅隋に朝貢、王金真平册命さる[東夷]
高句麗僧恵慈帰化,百済僧恵総来朝,観勒暦本天文地理書持参
皇太子厩戸慧慈に師事 高句麗・百済文化丸呑みの時代
598 新羅からの鵲(留鳥北九州にのみ棲息)2雙難波杜(行橋市)に飼う
600 倭王多利思北孤遣隋使[隋書]
推古紀に記録なし(谷川):近畿日本紀執筆者の立場では竹斯描写の明白な隋書の記述を採用できなかった?
(7世紀)(列島総人口:400万人)
602 始用(元嘉)暦
倭国(九州)中央での話、地方では顓頊暦が引き続き慣用されていたであろう。
603 官位12階を定める
百済が16品の官位制を定めたのは260年である。遅れること343年
608 随の裴世清百済南部を通り筑紫へ
この時代は百済、のちには新羅、を経由しないとつつがなく中国往復はできなかった。
619 難波天王寺(椿市廃寺:行橋市),聖徳造る
620 皇太子嶋大臣録天皇記及び国記並び公民等本記
新羅の国史編纂より75年遅れ
624 唐高句麗王建武を遼東郡王、百済王扶餘昌を帯方郡王、新羅王金真平を楽浪郡王に封ず
628 三月丁未朔戊申日有蝕盡之[紀] 九州北部で皆既日蝕[国天:国立天文台報11巻3,4号 谷川清隆、相馬充 7世紀の日本天文学 2008]
近畿大和では皆既日食でなかったことを古天文学者斎藤国治が早くから指摘していた。
630 岡本宮(田川郡赤村岡本)造営 難波(行橋市新津)三韓館修理:
642 百済弔使(筑紫より駅馬)
都の所在地は大宰府から馬で半日程度の行程、北部九州に限定される。
645 6月(乙巳クーデター) 12月難波(行橋)に遷都
660 新羅・唐、百済を滅ぼす
百済系王族・氏族の亡命先も日本列島
663 唐新羅軍倭百済軍を破り兵船400を焼く
白村江の潮の干満を読み違えたため大敗を喫したらしい。
665 9月唐使劉徳高、百済禰軍(53歳)筑紫に来朝
666 唐高宗泰山封禅(新羅、百済、耽羅)倭王臣従
667 3月近江遷都:九州倭京(彦山川流域)から,
三輪山(香春3岳)哀別歌(万葉集1-17,18)の読み方も当然変わってくる。
670 倭国,日本と改号したという[新]
天智王(百済系)の対外宣言
671 筑紫君(倭王)薩夜麻生還
672 壬申の乱
天武王(新羅系、大海人、漢皇子、金多遂?)称制
681 多禰島の地図を持帰る.京より5千余里(北九州から450km 短里:80~90m/里)
天武の倭京は北九州でしかあり得ない。
9月27日火星食[国天]
これも近畿大和では食になっていない(斎藤)。
684 10月14日夜南海・東海・西海巨大地震(M8.25)(伊予温泉没而上出:宮田町脇田温泉付近に活断層あり)
この時この辺で伊予温湯碑も埋没したのであろう。
690 11月11日冬至元嘉(平朔)暦、儀鳳(定朔)暦始行
元嘉暦は602年から使われている。儀鳳暦を併用し始めたということ。
691 8月詔十八氏、上進其の祖等墓記
これらが日本書紀パッチワークの素材(古事記には言及されていない記述)になっている。
694 12月藤原宮遷居(大宰府から:文物移動開始)
近畿大和朝廷の始まりである。これ以前近畿大和や河内地方に中央政権といえる政体は存在しなかった。
あったのは地方豪族(主として移住民系氏族:分家筋)の集落、墳墓。
695 1月大化改新の詔
696 7月高市(天皇?)崩
(8世紀)(列島総人口:500万人)
701 8月大宝律令完成(日本天皇明文化) 倭国の県・評から日本の国・郡へ
古田武彦ONライン
703 日本国初めて唐に入朝
中国正史で日本国の存在がはじめて認識された。
讃岐神恵院〔宇佐八幡別宮,日証〕開創
八幡信仰東遷第一歩を示す縁起がある。
704 7月遣唐使粟田真人、憶良等帰朝
708 元明(百済系:文定昌)即位
710 3/10平城京に遷都
712 古事記選録
倭(日本)語の漢字による音訓交用表記の画期的発展を示す(姜斗興)
715 元正(百済系:文)即位
718 8月法興寺を新京に遷す
719 正月入唐使拝見(唐製養老律令撰集開始?)
720 九州王朝滅亡 新羅来伐西鄙[海](=?)大伴旅人隼人の乱を鎮圧
養老日本紀成立 8月藤原上比等薨
唐、新羅と日本の関係はまだ結構入り組んでいる。
724 聖武(新羅系:文)即位
726 10月藤原宇合知造難波宮亊:万312
昔こそ難波田舎と云われけめ今は京引き都びにけり:摂津難波にかって都は無かったとの上比等の息子の証言である。
727 9月渤海郡使出羽来着12月入京
729 4月山陽諸国駅家建造着手
735 3月入唐大使(吉備真備等)帰朝大衍歴持参
737 4,7,8月藤原4兄弟薨 疫瘡大発
740 9~11月太宰少弐藤原廣嗣の乱(親唐政治批判:鈴木)
743 12月筑紫鎮西府を置く 平城大極殿を壊し恭仁京に遷造する
744 2月難波宮を皇都と定める
745 5月地震液状化
749 4月陸奥産金百済王敬朊献金 7月天皇(薬師寺幽閉)譲位改元 10月大仏鋳造完了
750 (列島総人口:560万人)
紀元0年以後の自然増110万人、社会増(=渡来民)390万人(:増加人口の78%)
紀元0年以後の自然増計算には、0年まで4,200年間の平均年間人口増加率:1.000789
(鬼頭宏「日本二千年の人口史《記載データから算出)を適用した。
これにより、0~750年間の人口増は自然増をはるかに上回る極めて異常なものであることが判った。
人口増の大部分は半島からの渡来人であったとしか考えられない。750年以後は、明治初年まで、このような著しい人口増は認められない。
従って、7世紀までの倭国時代、日本列島は中国大陸・朝鮮半島倭韓人の椊民天国であり、8世紀以後、定住渡来民を中心として日本国史書創作、日本語表記など独自文化形成が行われたと考えるべきであろう。
751 懐風藻なる
752 4月東大寺大仏開眼供養 新羅王子大宰府に来朝6月来京 9月渤海使佐渡に着く
754 1月入唐副使鑑真を同伴帰国
755 10月天智天武持統文武草壁元明元正山稜と上比等墓に聖武救病起請 11月唐国安禄山の乱
757 7月橘奈良麻呂の乱 12月大倭国司→大和国司
758 8月天皇譲位、淳仁*仲麻呂反唐羅ライン 鑑真の僧綱之任停止
762 1月唐人を大宰府で饗応 6月太上天皇孝謙聴政 10月渤海使越前加賀に来朝
763 8月18日廃儀鳳暦始用大衍暦
764 9月恵美押勝(仲麻呂)の乱(高野上皇クーデター:親唐羅路線に復帰:鈴木) 12月桜島噴火
769 9月中臣清麻呂宇佐八幡神託を報告、左遷される
770 8月称徳天皇崩 道鏡左遷 9月和気清麻呂復帰 10月光仁(百済系:文)即位
773 1月桓武立太子 6月渤海使能登に来着、筑紫路を採るよう指示 新羅唐に入朝
781 4月譲位 7月富士山下降灰 12月光仁崩
786 7月太政官院落成百官始めて朝座に就く
791 3月故吉備真備等の削呈した律令を実施 9月平城宮の諸門を長岡京に移作 渤海 唐に入朝
794 7月東西市を新京に遷す 10月平安遷都
797 2月続日本紀40巻成進
800 3月14日から4月18日まで富士山巓自焼
802 4月蝦夷阿弖利為降伏 5月19日廃相模国足柄路開箱根路
803 5月8日廃相模国箱根路復足柄旧路 閏10月大宰府豊満山で最澄敬造檀像薬師仏4躯
804 6月令造能登客院 7月第十一次遣唐使(最澄・空海等) 9月遣新羅使
806 天台宗公許 3月桓武崩 5月平城即位改元 10月空海筑紫に帰国
814 6月新撰姓氏録完成上表 9月渤海国貢献